帰ってきたLeonardo と娘の母国語―バルジェロ美術館ー
2010年 10月 06日
丑三つ時じゃないけど日は落ちて薄暗~い17時半。処はバルジェロ美術館の裏門。総勢15名程が集まり何やら話声。
先日バルジェロ美術館 館長STROZZI女史自らの案内による特別展見学に出かけてみました。
ご存知ですか、実はここが19世紀中頃まで刑務所だったこと?
狭い階段を上って降りてたどり着いたところはおなじみの中庭です。 静まり返って大理石の彫刻の大きさが一際目立ちちょっと怖い感じです。特別展会場はこの一角にあります。
I GRANDI BRONZI DEL BATTISTERO
-GIOVANFRANCESCO RUSTICI e LEONARDO-
礼拝堂の偉大なブロンズ像たち
ジョヴァンフランチェスコ ルスティチィ と レオナルド
1475年フローレンス生まれの芸術家ルスティチィの作品からルネッサンスの巨匠レオナルド ダ・ヴィンチが
この地にどのような影響を残していったかを探ろうと言うものです。
会場にはルーブルや英国博物館、また米国の個人美術館所有である旨のタグがいくつもあります。
熱心に何度も説得をしてやっと今回の展覧会実現の運びとなった事を感動的に説明する女史でした。
レオナルドをフローレンスへ連れ戻すための第一歩がスタートしたと言えそうです。
若くて腕は良いのに頑固者ルスティチィはレオナルドがミラノから地元へ凱旋した際に弟子として
その技術を受け継いだ貴重な人物といえます。
ご存知ですか? ブロンズで像を作るのは大変な技術が必要とされます。
ミケランジェロでさえ窯を開ける時神聖なミサをあげ神様にお祈りをしたといいます。1506年レオナルドがミラノより
信頼できる職人を呼ぶ事でこの展覧会の主役達が完成されます。 既にスフォルツァ家のために偉大なブロンズ像を
作っていたレオナルドだからこそ可能だったといえるのでしょうね。
FLORENTIA55からのアドヴァイスは”レオナルドのデッサン集を少し勉強”してから出かけようです。
そして彼のアイディアが会場に展示されている作品のどこに活かされているかを見つけてみてはいかがでしょうか。
さて このレオナルド、不思議と地元フローレンスでは話題に昇らない芸術家なのです。
ウフィツィ美術館にも3枚の絵が展示されているのみ。フローレンス人はミケランジェロを兎も角好みます!
実はこれ、北イタリアからきて最初に持った疑問でした。
ミラノでも夏目漱石の“倫敦日記”になってしまうレオナルド。心の病を癒してくれたのは
運河の流れだったとか。ダンテにより標準語が生まれたイタリアですが実際は方言の国なのです。
”まるで外国にいるようで言葉がわからない”という彼の手紙が残っています。
故郷を離れて一人寂しげなレオナルド。以前彼の日記を読んで驚いたのを思い出します。
言葉 母国語 ”自分の心”を自由自在に語るための言葉。
娘が生れた20年前お見舞いに来たほとんどの人がFLORENTIA55に言った言葉。
”彼女は日本人でもあるのだから日本語話せるようにしないとね”
でもFLORENTIA55の中ではいくつかの疑問が大きくなっていきました。
”悲しい時 娘は何語で泣くんだろうか?”
”何語で 本を読んで感動するんだろうか?”
一方通行で話しかけるだけでは言葉は生きてきません。彼女の母国語をイタリア語にすると言って
周りの不評をかったFLORENTIA55ですが今でもベターな判断だったと思います。
何といっても娘はこのイタリア―初めに言葉ありきーの国で生活を楽しむ権利があるのではないでしょうか。
小論文が小学生から宿題となり正当な議論で相手を納得させなければいけない大変な国で。。
今は外国語として日本語を学んでいる娘です。日本の祖母との電話には時々福島の方言も入るようです。
6歳から13歳までJALやANAでの一人旅で毎年祖母と過ごした2ケ月間の夏休みの成果です。
忘れてはいけないのがこの人 ー 自分も寂しいはずなのにずっと我慢してくれた夫に感謝!
*イヴェント*
museo nationale del bargello
予約はFIRENZE MUSEI (ウフィツィもこの番号です!)
電話 055-2654321
開館日
火曜日から日曜日、第1,3,5月曜日
8時15分ー17時まで。
*11月2日より12月24日時間短縮で14時まで
土、日曜日は 8時15分から17時まで。
休館日
12月25日、1月1日、毎月第2,4月曜日
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